大澤真幸/山口二郎/柄谷行人/磯崎新「震災原発と新たな社会運動」(2011.6.5鼎談)

大澤真幸
・カント:リスボン大震災を背景に、「崇高」概念。自然災害は破壊的だがどんな災害や飢饉でも人間の道徳律の持っている厳しさに比べたら大したことがない。東日本大震災津波だけの議論であればカントの議論は当てはまったと言えるが、付随して原発事故の発生。
阪神大震災との違いはナショナリズムが強調された点。ナショナルなものが強調されても海外からの支援や寄付などは集まっていた。しかし、原発
ソフィーの選択」:倫理的にとけない究極の選択。ユダヤ人女性がナチスの時代を生きているが、ナチスの医者から「自分の二人の子のうち一人を選びなさい」と言われる。両方選ぶことを拒否したらふたりともガス室送り。どちらかを選ばないと両方犠牲になってしまう。
…しかし、もし選択肢が子供かモノかだったら迷うことなく子供を選べる。原発稼働か廃炉かの選択に迷っている。簡単な問題なはずなのに迷ってしまう。
災害ユートピア=友愛のコミューン:人間は差異を超えて連帯できる。連帯とはいえど一緒に生きている人同士、存在している者同士の連帯。原発の問題を解決するためには存在していない他者(=未来の人達)と連帯できるかという問題。過去の他者と連帯することは可能。意思を引き継ぐ等の手段で。未来の他者との連帯ができないことが「簡単な問題』を解けない理由。

山口二郎
・デモクラシーが原発危機を克服できるか
人民の人民による人民のための政治、for the people:「ために」「代わって(統治をする)」
戦後日本はパターナリズムを基調とする政党が民主化を進めてきた。そのため、byが後継に退く。バブル崩壊後、この仕組が動揺をきたした。新潟で原発を押し返すことに成功した例、徳島の吉野川河口近くに原発を造る計画を押し返した例→「民主主義の誤作動」と政治家に評された
パターナリズムの否定、再分配縮小→自己責任に回収される。地方構造改革小さい政府自分たちで公共性を議論する機運が縮小。byを歪めた結果が名古屋大阪のポピュリズム。例:議会コミューンがけしからんと仮想敵を作って一時の溜飲を下げる。また、学問も二重のforに加担してきた。原発テクノクラシーと癒着。学問の批判性が低下、完了と一緒になって担っていく。
戦後デモクラシーにおける受動的デモクラシーの帰結としての原発政策=原発誘致地域への補助金バラマキ。受動的になればなるほど自治体が潤う

2)大本営の問題をジャーナリズムが報じるようになった。
政官財の鉄の三角形が既得権温存。今回はそれに加えてメディア学者労組も加担。メルトダウンの事実を2ヶ月後に発表したり、対策立案に必要な現状把握すらできていない状態で権力は動いてきた。という実態が白日のもとにさらされた。学者テクノクラート共同体がforを定義する能力を失ったと市民が認識したのは大きな変化。

3)政治の現実にいかにコミットするか
民主党政権時に起きた震災。長年利権を温存してきた自民党が政権与党だったらさらに隠蔽をした可能性があった。
強いリーダー待望論
政権交代さえすれば日本が良くなると期待しすぎた論者(山口二郎も含む)菅直人は退陣するときに政治だけでなく社会運動にも期待を寄せて去った。

柄谷行人
・人間の根底には相互扶助・互酬性。その最も体系的な表れ方が普遍宗教(ユダヤ教)。原子共同体の狩猟採集民族・遊動民。
・「災害時には万人闘争状態・自然状態・無政府状態になる」←クロポトキンアナキスト)が批判。震災時は人々は狩猟民になる。災害時は必然的に共食(きょうしょく)共に食べる状態。かつての遊動民状態を再現することになる。例:避難所でも殺し合いにはならない。
・災害ユートピアは国会によって解体される。国家がデマを否定せず吹聴。例:ニューオーリンズ関東大震災の虐殺。原発事故による離散も国家によるもの。

磯崎新
・災害→切断→変(乱)を作品化できるか。
例:ヒロシマが再度廃墟になった、世界帝国の中心としてのカンピドリオ広場、スタンダとニューデメ「チェルノブイリ」、レントコレクション再演、円明園が英仏軍によって破壊(略奪された十二支像)
・例:ビンラディンのパロディ「私をさがさないでください」→総督激怒の動画
・例:「シチュエーションルーム2」(真っ黒な映像に首相官邸
・チンポム、山本太郎の問題